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鹿児島はブータン王国にされたのか?

 投稿者:ねこ  投稿日:2013年 1月23日(水)11時51分41秒
  鹿児島はブータン王国にされたのか?

http://book.geocities.jp/japans_conspiracy/02/p008.html#page87

間違いないだろう。

( http://book.geocities.jp/japan_conspiracy/0202/p008.html )
( http://park.geocities.jp/j_con4/0104/p044.html )
 
 

ブータン

 投稿者:堀江貞雄メール  投稿日:2011年12月30日(金)07時25分8秒
   ブータン国王夫妻が来日して、京都での歓迎祝宴では日本の着物を着て現れたが、実によくご夫婦共似合って
やはり東洋人だなあと感じ入った。
 私が、ブータンを訪問したのは2005年で6年前であるから前国王時代である。面積は九州の約1割増しだ
が人口は、九州の二十分の一の約70万人。GNPは年660ドルで日本の約五十分の一だが、GNH(Happiness)を
重視したスローガンで知られている。社会構造が母系社会であることはむしろ先進的であるのだろう。我々のガ
イドのジュルミ・ツェワン氏の奥さんは日本人女性だったが、「結婚式」という儀式はブータンにはなく、「家」
という概念もないと奥さんから聞いた。
 女性が経済力を持っているので、百戦錬磨の女性が多く、従って浮気も離婚・再婚も多いそうだ。日本人女性
でブータン人と結婚した者も多いという。
 ブータンは、国全体が南部インド国境の標高約200メートルから、北部中国国境のカンガル・プンスム標高
7,561㍍までが大きな坂に載ったようなものと言われている。その中で地球全体で減りつつる森林が徐々に
増加しているのが、ブータンの土地利用の特徴である。要するに偉大なる田舎であり、我々消費者である人間・
動物どもを、養う生産者としての植物・森林が増加している国なのである。
 ヨーロッパでも、かってはギリシャ神話の世界で、多神教であったのだが、それをプリミティブだ、原始的だと
云って、現在のような一神教に発展させて来たが、その一神教がたった2,000年で地球をだめにしてしまった
のである。唯一神や人間が中心の教義や思想であったために、他の生き物や自然環境は征服し利用するためのもの
と考えたのである。一方プリミティブであんなの宗教じゃないと思われてきた日本の仏教や神道には、自然との共
存思想があった。ブータンの国教仏教にも森林の思想・自然との共存思想がある。
 ソバを麺で主食として食するのは、ブータンと日本だけらしいが、料理法はかなり異なる。ブータンではソバ粉
を団子にして茹でて食するが、日本ではソバ粉を十分に捏ねて細く切って茹でて食する。加工度が相当異なり、全
く別物の味になっている。
 ブータンは、棚田が日本に負けずに見事に広がっている。田植えの時期には男は鋤を牛に曳かせて田を耕し、
女性達が田植えに勤しむ姿が見られる。今の日本では滅多に見られぬ風景である。
 一方首都ティンプーには、公務員を中心とした給与労働者が住むようになり、自給自足から脱却してサブジ・
バザール(野菜市場)が土・日に開かれ、年ごとに賑わいが拡大している。
 篤農家の丹精で見事に育った日本の野菜類と比べると、ブータンのサブジ・バザールに並んでいるのは全く別物
のように見劣りがする。しかし不格好であるが味は劣らないかも知れない。車で走っていると道ばたの小屋に獲れ
た野菜を並べている店を数多く見かけた。日本のように無人ではなく人が居ても、決して声を掛けてこない、知ら
ん顔をしている。流通は始まったばかりなのである。
 ブータンの山野の風景は、日本と酷似している。建物を意識しなければ今何処に居るのか解らなくなるほどであ
る。大きな坂に乗った国といわれるブータンでは、車で行ける最高地点のチェレラ峠(3800メートル)に行き、
遠くチョモラリ(7314メートル)を眺めた。
 特別許可が出て、ブータン最古の寺キチュ・ラカンの内部見学をすることが出来た。中庭で五体投地を繰り返し
ている男が居た。お百度を踏むように石で回数を数えている。己を捨てた仏の境地そのものということか。日本で
は奈良のお水取りで、二月堂のおたいまつの前に五体投地を繰り返す音を聞くことが出来る。
 五体投地をするものは、元々すでに己を捨てている。生きるも死ぬも、超えた境地で進んで行く。その境地その
ものが、まさに仏の境地なのだろう。
 

エネルギー生成形と病気

 投稿者:堀江貞雄メール  投稿日:2011年12月25日(日)05時11分6秒
   私達の体には二種類の自律神経即ち交感神経と副交感神経がある。私達は無理をしすぎても楽をしすぎて
も病気になる。交感神経と副交感神経のどちらにも偏り過ぎない生活が大事なのである。また病気を避ける
上で自律神経に次いで大切なのが白血球で、その60%は顆粒球で細菌を処理し化膿性の炎症を起こして治
癒させる。残りの40%はリンパ球で、様々な食べ物と一緒に入ってくる異種タンパク、ウイルス、などの
小さな異物を抗体で凝集させて無毒化する免疫系である。自律神経も二本立てだが、白血球も二本立てで体
を守っている。自律神経のバランスがいい人は顆粒球とリンパ球の比がだいたい60対40で、自律神経の
支配を受けて調節されている。野生動物が顆粒球を増やすのは、交感神経を緊張させて活発に活動している
ときである。手足が傷付き細菌が侵入しやすいので、それに備えるためだ。一方、リンパ球を増やし副交感
神経を働かせるのは、リラックスできる食事時である。人体にはリンパ節、胸線、脾臓などのリンパ球の循
環や産出を行う器官が備わっている。本来ならバランスが取れている両者の関係だが、私達があまりに忙し
く悩みを抱える生活を送ったり、あるいは逆に美食と運動不足の偏った生活を送ったりすると、顆粒球やリ
ンパ球のどちらかが過剰になり、病気が引き起こされる。様々な病気や過敏症は、原因不明ではなく、生き
方の問題と繋がっていると考えられる。
 私達は又二つのエネルギー生成系を即ち解糖系とミトコンドリア系だが、人は一生をかけてこれら二つの
エネルギー生成系をシフトさせいくのである。子供時代は解糖系が優位だが、大人になるにつれ、一対一に
調和していく。子供は解糖系なので、瞬発力できびきび遊ぶが、乳酸が溜まり易くすぐ疲れる。大人になる
と、活発な細胞分裂は、皮膚、腸上皮、脊髄、男性の精子等でしか起きなくなる。エネルギー効率の良いミ
トコンドリア系が増えるので、三食で足りるようになりおやつは必要なくなる。高齢になると解糖系が縮小
するので分裂が少なくなる。ミトコンドリア系のエネルギー効率の良さを反映して、小食になるが持続力は
残る。ミトコンドリアが最も少ないのががん細胞である。ストレスの多い過酷な状況下では、20億年前の
無酸素の細胞をもう一回作り出さないと適応できないのであろう。男性は、ミトコンドリアの殆どない精子、
すなわち解糖系生命体を作り、女性はミトコンドリアだらけの成熟卵子を作ることで、「20億年前の解糖
系とミトコンドリア系の合体をやり直すのが生殖だ」と理解できる。心臓や赤筋などミトコンドリアが多い
場所にガンは発生しない。がんが出来やすいのは、ミトコンドリアが少ない分裂細胞、すなわち皮膚、腸上
皮、そこに付随した分泌線細胞で、これらの場所でも、ストレスが少なく酸素をたっぷり取り込んでいる間
はミトコンドリアが分裂を抑制しているが、ストレスの多い生活を続けると、ミトコンドリアが正常に機能
しなくなり、低酸素・低体温・高血糖への適応として、解糖系生命体=がん細胞が目ざめることになる。
 今更ながらに、人間の体は複雑にして巧妙に出来ている。従って機能を発揮すれば素晴らしい結果を産む
が、バランスを崩す危険が極めて大きいと言える。
 

ミトコンドリアと進化

 投稿者:堀江貞雄メール  投稿日:2011年12月20日(火)05時05分40秒
  1987年、「ネイチャー」誌に人類の過去に対するわれわれの認識に大変革をもたらす論文が掲載された。
すべての現生人類が結局のところアフリカに20万年ほど前にいたひとりの女性から受け継がれたDNAを持って
おり、その女性は「ミトコンドリア・イヴ」として有名になった。知られているかぎり、現在地球上にいるあ
らゆる人は彼女の子孫であって、われわれはみな肌の下は同じだというのである。
我々の体を構成する細胞一つ一つには、核がありその中には遺伝情報がぎっしりと詰まった遺伝子(染色体)
が含まれている。 ヒトの場合には23対46本の染色体があり、父親と母親から23本ずつうけついだ遺伝
情報が記録されている。
 1968年にミトコンドリアの構造の中に細胞の核が持っている遺伝子とは別の遺伝子が発見され、これを
ミトコンドリアDNAと呼ぶが、ヒトを含め大部分の動物でミトコンドリアDNAは母系遺伝をすることが確認された。
 ヒトの精子も細胞なので20程度のミトコンドリアが存在しているが、しかし卵子と融合した後でなぜか精子
由来のミトコンドリアは消滅してしまい、元々卵子にあったミトコンドリアだけが生き残るので、従って我々の
体内にあるすべてのミトコンドリアは、体細胞のDNAと違い、すべて母親から受け継いだものであるからミトコン
ドリアDNAは組み替えを起こさず、従って系統的に過去を辿ることが出来るのである。
 僅か21年前までは、人類は少なくとも百万年前からアフリカは勿論アジアにも存在して、原人から解剖学上
の現生人類への進化は、世界のさまざまな地域で並行して起こり、したがってわれわれどうしの違いは皮一重で
はなく、人種や文化の独自性は生物学的要因にしっかり根差していて、人類は決して平等ではない存在だと考え
られていたのであり、ナチズムや西欧至上主義の温床になっていた。それが上述の如く、現生人類のすべてはア
フリカから誕生して、全世界に分布したと結論づけられたのである。
 「生物学的な進化には、いかなる特権的な地位を占める家系もなければ、あらかじめ設計された目的もない。
進化は何百万回となくその折々での暫定的な目標を達成してきており、どれか一つの目標をほかの目標よりも特
権的であるとか、究極的であるとか称するのは、虚しい自惚れ以外の何ものでもない。」
                                                  リチャード・ドーキンス著「祖先の物語」
 

納骨

 投稿者:堀江貞雄メール  投稿日:2011年12月15日(木)07時05分42秒
  私の両親は20年以上前に亡くなったので、お骨を拾うまでお付き合いするほど身近な人の葬儀には、昨年母
の妹が死亡するまで出会ってない。昨年叔母のお骨を拾ったときに、1300℃の高温で焼くので完全にカルシュ
ウムだけの灰になつていると思った。「お骨拾い」は日本人特に仏教の信者の間で習慣化して受け継がれて来
た伝統であって、死と埋葬に関する世界の異習・奇習のひとつとして「壺に死者の灰をうやうやしく保存する
日本人」と記述されているそうである。見ようによってはかなり偏執的な慣習と捉えられるのであろう。日本
一大きい十津川村には、明治維新で仏教寺院がすべて無くなったと聞いている。葬儀の在り方も大幅に変わっ
たのであろう。
 奈良時代、土葬、風葬、水葬などが一般的だった。ほとんどが、山のふもとや村のはずれなどの人里離れた
ところに遺体を置いてくる風葬だった。「万葉集」には亡くなった人を悼む挽歌が数多く収録されているが、
そこで詠まれているのは、山の上へ、あるいは雲や霧の合間へとあの人は昇っていった、という歌が多い。
 当時の人たちは遺体に対する関心はほとんどなく、遺体から抜け出て山の上に昇っていく魂を想って歌を詠
んでいた。
 死者の肉体、遺骨を供養しようとする動きが見えはじめたのは平安時代、藤原道長のころだと言われている。
京都の宇治の木幡に淨妙寺があるが、道長が一族の菩提を弔うために建立した寺である。この地はもともと藤
原家の墓所だつたところで、藤原氏の一族はそれまで、誰かが亡くなると木幡の地に運んで、置いてくるか、
埋めてきた。木幡には累々と屍体が積み重ねられていたという記録もあるそうだから、異臭を放ち、とても人
の寄りつくところではなかったのであろう。
 道長はそれを愁い、寺を建立して先祖の供養をしたのであり、道長自身もこの淨妙寺に埋葬されたといわれ
ている。道長の子頼道は、木幡にほど近い宇治の別荘を寺院として寄進した。それが宇治平等院である。
 こうした流れのなかで、火葬した骨を仏堂に安置して供養する風習が、身分の高い貴族のあいだでおこなわ
れるようになつた。とくにそれを一般に広めたのが、高野山への納骨である。
日本の民俗的風習には、骨に固執する感覚がけっこう根強いのがわかる。柳田国男が、民俗語彙に関する全国
調査を実施したなかに、「ホネカミ」とか「ホネコブリ」「ホネシャブリ」などの言葉がある。柳田国男は、も
ともとは死者の出た家で遺骨をかんだりしゃぶつたりした習慣があったのだろうとしている。五木寛之の「青春
の門」は、「骨噛みの山」という話で始まる。炭鉱で死んだ人を弔う儀式を「骨噛み」と呼ぶ。その喪の様子が
描かれている。
 

弥生文化博物館

 投稿者:堀江貞雄メール  投稿日:2011年12月10日(土)10時09分43秒
   信太山を訪れた。大阪で生まれ終戦の年まで市岡中学に通っていたので、一年入学時に学校から信太山
にある林間学校まで行軍させられた。30キロぐらいはあったと思う。途中時々走らされたのが辛かった。
喉が渇き無性に水を飲みたいと思った最初の経験だった。信太山はこの行軍と結びついている。以後60年
余り経っているが電車で通る時も素通りであまり意識せずにきた。今回偶然に大阪府立弥生文化博物館が
あるのを知り下車することになった。開館20周年記念で平成23年度秋季特別展として、「弥生文化のはじ
まり」土井ヶ浜遺跡と響灘周辺が取り上げられたので見に行った。最近縄文時代に関心があり、日本列島
に人間が住みだしたのは、北からか南からか、弥生時代に稲作と共に南から入ってきた経緯はいろいろと
説かれているが、一方縄文時代人は何処から来たのか、既に存在したが経路の説明が不足している。北の
方で遺跡が発掘され、川内丸山遺跡等も紹介されているが、何処から来たのかは不明である。人口は環境
が良かったので4千年前は二十三万人が北部日本に住み、一方資源に恵まれない南部日本には三万人程度が
住んでいたとされる。山口県響灘の土井ヶ浜遺跡は、弥生前期の人骨が砂浜から忽然とあらわれ、保存状態
のよい人骨が200体を超え、朝鮮半島との繋がりを物語るものだった。しかしあるいは当然の発見であって、
縄文時代の人骨が発見されたのであれば、驚きを持って迎えられるだろうと思う。
 信太山で下車して踏切を渡り、茶色の舗装をした道をたどると国道26号線に出る。目の前が池上曽根遺
跡で広々とした空き地が併設されており、人びとが運動を楽しんでいる姿が見えた。すぐ左手に博物館が
見える。最近国立歴史民族博物館の研究グループから、炭素14年代測定法による新たな測定値がつぎつ
ぎと報告され、縄文から弥生への転換は、長い時間をかけて進行したことが明らかになった。日本列島各
地での弥生文化の開始年代を検討出来るようになったのである。東北地方から北陸地方の北日本の縄文時
代晩期には、精緻な文様と漆塗りを特徴とする亀ヶ岡式土器が分布していた。弥生時代が開始する以前に
も、北日本集団は近畿地方に移住し、また交易を行っていた。この北日本集団の土器が、本格的な弥生文
化が成立した段階に西日本に広範囲に分布し、その系統の土器の分布範囲は鹿児島、そして奄美大島にま
でおよんでいることが判明した。西日本にもたらされた亀ヶ岡式系土器のなかには、福岡県福岡市板付遺
跡や同市雀居遺跡といった福岡平野の最初期の弥生文化の中枢的最前線である弥生集落から出土しており、
板付遺跡で本格的な弥生文化が成立したそのとき、そこでの変化を実感した人々のなかに北日本の縄文人
がいたことになる。
 

間が持てない人たち

 投稿者:堀江貞雄メール  投稿日:2011年12月 5日(月)12時39分14秒
  CS放送で放映されていたアメリカの人気テレビ番組「マッドマン」で、気になった箇所は登場人物たちが
実によくたばこを吸うことだと朝日新聞の経済気象台に(ほろほろ)氏は書いていた。ほとんどの登場人物が
たばこを携帯し、会議中はもちろん、食事中でも必ず喫煙を楽しみ、人を待つ間など暇な時間をつぶす小道具
として頻繁に使われていた。禁煙ブームが定着した現在では、周囲の人への配慮から喫煙場所が年々縮小して
いる。が一方で、かってのたばこのように、多くの人たちが常に手にし、時間をつぶすために活用しているモノ
がある、それは携帯電話だ。と(ほろほろ)氏は続ける。 確かにその通りで乗り物に乗った場合、乗って来
る人で乗車するとすぐ携帯を取り出す姿を見かけることが多い。特に若い女性に多く、見てすぐ仕舞う人もい
るが、そのまま見続ける人も多い。何を見ているのか気になるが覗く事が出来ないのが残念だ。ただ今でも
時間つぶしが喫煙なのはTVで捜査を担当する刑事で、時間待ちは携帯ではなく喫煙が多い。間が持てない時、
現代人はたばこではなく、携帯電話に依存していると言えるが最近はスマホであろう。スマホは動画の閲覧や
アプリ(応用ソフト)の取り込みなどパソコン並みの使い方が出来るので、そのためには大量のデータ通信が
必要で、通信量は従来型携帯電話の10~20倍に上るとされる。一つの基地局の周りで何百台ものスマホが
同時に通信を始めるとデ―タをさばききれなくなるのだ。業界では基地局の増設、バイパス作戦、プラチナ
バンドのすべての回避策を講じてもスマホ普及に伴う通信量の増加には「対処しきれない」との見方が有力だ。
抜本的な解決策が見えないまま、各社は手探りで対策を続けている。健康上の理由からたばこは禁煙ブームを生
んだが、携帯電話の弱みはその電磁波が人の脳に影響を与えことにあるように(ほろほろ)氏は書いているが、
これはピント外れであろう。
とどまるところを知らない通信量の膨張は、基地局増設や通信網分散で対処できないとなれば、最後は利用者
の通信を抑制するしかない。具体的には速度制限や定額制の廃止になるだろう。米国では通信量増大に苦しむ
最大手のベライゾン・ワイヤレスやAT&Tが定額制を廃止し、毎月の通信量に応じて料金を支払う従量制に切
り替えた。この流れが世界に広がる可能性がある。ほんの数%の人が大量に使うことで他の人が迷惑するので
ある。寸刻を惜しんで、歩きながら、自転車に乗っても、更に車を運転しながら携帯を覗きこんでいる人々は
間が持てないでは済まされない危険な社会現象と言えるだろう。
 

一命

 投稿者:堀江貞雄メール  投稿日:2011年11月30日(水)15時06分5秒
  久し振りに映画を見た。三池崇史監督の「一命」である。平日の朝一番の9時20分から見たのだから、映画館は
自由席でガラガラだった。しかもシニアは1,000円なので安い。同じような思いで来たのであろう同年輩位の夫婦
連れが数組いたのには感心した。今の私にはできない芸当だと思う。家から歩いて10分だから極めて便利である。
しかも安いので、本人が見る気になるかどうかがポイントで、やはり積極的に映画を見る気になることも若さを
保つ上で大事なことだろう。
 映画は、昭和35年に小林正樹監督「切腹」で映画化され、原作は滝口康彦著「異聞浪人記」だという。前作を
見たかどうかは忘れてしまつたが、仲代達矢主演でカンヌ国際映画祭で審査員特別賞に選ばれた名作だそうだ。
 今回は、市川海老蔵が初老の浪人・津雲半四郎役で主演した。「狂言切腹」というゆすりをめぐる話で、天下
泰平になり食い詰めた浪人たちは、切腹するので軒先を貸して欲しいと大名家に申し出て、厄介払いの金銭を得
ていた。半四郎の義理の息子・求女も、衰弱した我が子の治療費を得るために、井伊家でこの手を使おうとする
が、本当に切腹させられてしまう。生活のために刀を売った求女が差していたのは「竹光」だった。単身で井伊
家に乗り込む半四郎。その半四郎も「竹光」しか差していなかった。求女の「竹光」での切腹の場面も、半四郎
の井伊家家臣団との「竹光」での大立ち回りも、様式化したシーンで実際にはあり得ない感じがでて、少しあく
ど過ぎるのと長すぎるように思えた。途中でもうよいという気分にさせられた。緊迫感に緩みが生じたように思
われた。
「武士の名誉を捨ててまで家族を守ろうとした男の姿が、見る者の心を強く動かす。今の日本人にこそ見てほし
い映画です」瀬戸内寂聴が広告に書いていたが、毒にも薬にもならない感想だと思う。原作を読んで見ないと分
からないが、狂言という舞台の表現方法をもう少し工夫すべきだろう。貧乏も狂言もから傘張りも定型化しても
うよいのではという気分だった。単身で井伊家に乗り込んだ半四郎。だが、海老蔵は「一命」は復讐劇ではない
と話す。相対する井伊家家老・斎藤勘解由役に役所宏司がでていた。武士の面目を第一と考える姿勢である。
要するに、50年経過して再映画化して何を描こうとしたのか。興行本位の凡作だと見えた。
 

神様の女房

 投稿者:堀江貞雄メール  投稿日:2011年11月25日(金)05時05分22秒
   松下幸之助が井植むめのと見合いをした場所として高橋誠之介著「神様の女房」で紹介されたのが、
西大阪の松島にある八千代座という芝居小屋の前である。当時「松島八千代座」は西大阪第一の大劇場
で、明治三十三年に改築されたときは初代中村鴈次郎、中村梅玉一座がかかり、その後も道頓堀の一流
俳優がしばしば出演した。とくに大正期には名優十一代目片岡仁左衛門一座がよく来演し、昭和初期ま
で西大阪で人気を博していたのである。その西の繁華街の芝居小屋のまんまえに、八千代堂という煙草
の販売と菓子の製造販売とをしていた店があったが、私はそこで生まれた。祖父が徳島から出てきて菓
子の製造を始めたのであるが、土地一升金一升と言われた土地柄であった。最近まで松下幸之助が見合
いをした場所だとは知らなかったが、NHKのTVでも放映されたように人通りが夜通し絶えないとい
う繁華街で、見合いの当日、彼は大枚5円20銭でつくってもらった銘仙の羽織を着て、姉夫婦と一緒に雑
踏の中にたたずんでいた。
 予定の刻限まで、彼は芝居の看板を見たり、相手の来る千代崎橋の方を見たりしていた。そのうちに
周囲の人たちが気づいたらしく、しきりに彼を見ていく。彼は赤くなってうつむいてしまった。「幸之
助、来たぞ、見よ」と言う義兄の言葉で、彼が顔を上げたときには、すでに相手は八千代座の前を過ぎ
て行ってしまった。
 千代崎橋には、「いろは」という三階建のすき焼き専門の和食店があり大きな時計台が記憶に残って
いる。その間映画館・薬屋・鰻屋・小間物屋・化粧品店・本屋などが軒を連ねていた。近くに今は無く
なったが天神さんがあり、大阪の川渡御は天満の天神さんが、松島の天神まで遊びに来られるのやと言
ったものだった。その行列を二階から眺めていて巡査からこっぴどく怒られた事があった、不敬だとい
うのである。八千代座のまえの八千代堂の息子だということで、入口のもぎりの女性は顔なじみだった
が、小学生にはあまり芝居は面白くなかった。近くの映画館で上映していたキングコングやターザンの
映画の方が面白かった。
 松島には遊郭があり夜通し、人通りが絶えなかった。入口をはいると女性の写真が並んでいた。小学
校の友だちの家もあったが、ご互いに家で遊ぶのは避けていたように思う。しかし子供は無関係に昼間
は元気に鬼ごっこをしたり、蝋石で路上に絵を描いて遊んでいた。大阪の第一回空襲で完全に焼失し、
小学校も廃校になってしまって何も残ってないので、68年経過して何の消息もないのである。
 

新旧十津川村

 投稿者:堀江貞雄メール  投稿日:2011年11月21日(月)05時02分33秒
   台風12号で5人が死亡、7人が行方不明となった奈良県十津川村で、9日村をあげての運動会が開かれた
との新聞記事を見た。日本で面積が一番広い村であるが、村内の道路で9日現在通行止めとなっているのは
約10ヶ所。林道も約20ヶ所で通行できなくなっている。自宅が被害を受けるなどして村内外へ避難した村民
は計約50所帯100人。うち三つの地区が、隣接する奈良県五条市の土砂ダムが決壊すると土石流などに襲わ
れる恐れがあるとして警戒区域に指定され、10世帯の20人が県営住宅などに避難しているそうだ。大雨による
土砂災害としては、戦後最大規模の約1億立方㍍で、2008年の岩手・宮城内陸地震(約1億3千万立方㍍)や
2004年の新潟県中越地震(約1億立方㍍)に匹敵するするという。
 十津川村は過去に水害で村を挙げて北海道に移転した経験がある。明治22年8月18~19日の大豪雨による
水害は、一夜で地形まで変えるほどにひどかった。流出、沈没の家屋は数知れず、しかもこの報が伝わるの
が遅れた。このため被災者を北海道に移住させて新十津川村を作る案に発想が飛躍したそうだ。大和の十津
川村から入植して原野に斧を入れた人々は、もう今はいない。次の世代の人びとに引き継がれて、いまでは
北海道でも有数の富裕な村になっている。当時は大水害で陸地が湖水になってしまったという意味のことを、
明治22年10月、奈良県知事が北海道へゆく十津川郷民に対する告諭文のなかで書いている。
 十津川村は、1991年12月熊野古道を歩いた時に、近露から三越峠を越えて本宮に行き、バスで折立の民宿に
宿泊して翌日玉置山に登った後に同じ折立の民宿に戻って宿泊し、翌日十津川役場からバスで五条まで3時間
余り運転手と二人だけのバス旅行をした思い出がある。
 大和の十津川の場合、ごく微弱な勢力ながら明治維新の推進勢力のひとつだったという誇りがあって、明治
初期政権が実施した最大の勇み足である神仏分離を本気でやってのけ、寺をこわし、仏像を川に流して全村挙
げて神道に改宗してしまったという実績がある。大和の十津川村の郷社である玉置山の神体を北海道に分祠し
て、新十津川神社と名づけられている氏神が新役場の傍にあるそうだ。最近大和の役場に問い合せたところ、
お寺が数件出来たという。明治維新以来最近まで仏教に無縁な村であったのである。神も仏も人の心の在り方
に関する問題で、文化的センスの豊かさのレベルを示すものだと思う。十津川村の行為は勇み足だったとは云
え、全村挙げての実験であり形式化しない信仰の大切さを示すものであろうと思う。
 

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